2016年1月9日土曜日

序章その1

我が家には5人の猫がいる。ナナ、チャト、ライ、レト、ハナコである。
彼らが我が家に住みついたのは、いつ頃からだったのだろうか。
全員捨て猫か野良猫であったから、いまでもナナの年齢しかわからない。
ナナは、ここの末息子が、まだ、目の見えない状態で、公園に
すてられていたのを、連れてきたので、17歳になる。
そこで、猫族との交流が始まった。それまでは、グンと名付けた
柴犬が1人いるだけの静かな生活だったのだが、以降17年、騒がしさは、
衰えるどころかますますのその力を増している。
元々、ここの主人である私は、動物が、それほど好きではない。
ママと息子3人が、頑張っている中、それ以上の面倒は見切れない。
これが、その当時の偽ざる気持ちである。
しかし、ひとの噂も何とやら、好いた女房も枯れ雌しべの様に
正に、猫族の守り神の如く、猫族はそこまで思っていない
様ではあるが、の毎日である。
特に、退職と言う、世間言う悠々自適の生活になってからは、
猫族が一声出せば、ドライフードと缶詰の食事を与え喉が乾いた
と一声上げれば、水を出すまるで守り神からしもべになり切っている。
今日もいつもの如くチャトとライの男組は、腹が減った
と騒ぐので、昼飯を出していると、若く、元気なハナコが、
私も食べたいと、顔を出したが、食事となるとうるさいライが
ハナコの顔面に、パンチ一発、ハナコも慌てて、逃げ出す始末。
チャトはといえば、そんなのは、どこ吹く風、ただひたすら、
食べるのみ。茶トラ系の猫族は、温厚で、喧嘩をしないと言われている。
正に、我が家のチャトは、その代表の様に見える。
拾われて来た時は、結構頑張って、町内を仕切ろうと思ったのだろうか、
よく外で喧嘩していた様であるが、負け続けてその度に主人の横で
べったりとただひたすら負けた悔しさを噛み締めていた。
我が家は、琵琶湖を見下ろす高台にある。坂をゆるゆると登りながら、
ふと、後ろに目をやれば、遠く湖東の山並が薄雲の中に、その姿を見せる。
「霞みは春、霧は秋」と言うが如く、ほのぼの明け、ほの暮、と合わせ、
その姿を変えていく。水を満面の笑みの如く讃えた琵琶湖が、その手前に
横たわる。時に、蒼く、時には、薄緑に、そして、灰色がかり、様々な
顔を見せる。
小さな丘を削り、やや急な坂道の上に、数百の小綺麗な家並みが続いている。
近くのJRの駅から見ると、丘に様々な色の箱が、規則正しく並べられた様に
幾重にも重なっている。赤みを帯びた真四角なモノ、黒光りする瓦の和風作り、
黄色の壁のやや丸みを強調したレンガ風のモノ、などなど、まるで、住宅
展示場を呈している。ピンク色した石作り風な家もあれば、派手な色で強調
したペンキ塗りの家もある。黄金杉をうっそうと茂らしているかなり大きめ
の家もある。どーんこの街を一直線に貫いている道路は、比良山がまるで、
くるな、というような形で、袋小路となっている。その先には、これもまた、
まるで、ここの住民を無視するが如く、孟宗竹の一群が、生え茂っていた。
森や林に囲まれたいるというよりも、抱かれているようでもある。
まだ、歯抜けの様な状態で、いくつかの空き地が見えるが、すでに400
ほどの家々が軒を並べて、その生活空間を現出している。
それらを睥睨する様に、比良山が見下ろし、その深い緑の抱擁力のある力
で、街を静かに、抱えている。少し眼を先に向ければ、薄緑色の琵琶湖が
ゆらゆらとその水面をくねらしている。
夏の深緑、秋の群青、冬の灰色、そして、春の光に満ちた薄緑色。
そこには、生命が息づき、山々の鼓動と合わせ、近江と言われる姿を
見せている。
街を取り巻く木々たちは、20年ほど前、この闖入者たちを迎えたが、
大きな二本の通りが出来、そこにまた、やや細い道が出来て行くのを
見守て来た。やがて、70坪ほどの区切られた土地には、希望という名の
輝きに満ちた家々が、その住人の想いに合わせ、毎年その姿を新たに
現して来た。街は、輝いていた。
 
我が家の周辺は、近くの住宅街が子供の声が消えてから久しいが、
通りには、いくつかのさざめが聞こえる。車が、遠慮しがちに
子供達の横をすり抜けて行く。中央の大きな広場では、サッカーに
興じている。
湖西は、近江の里として、何人かの作家が、その魅力に惹かれて
紹介して来た。今でも、周辺を治めていた豪族の墓や神社が
深い森に隠れる様に、ひっそりとその姿を隠している。
例えば、司馬遼太郎は、街道をゆく、の第一巻を、近江から
始めましょう、言っている。
その一文が、
近つ淡海という言葉を縮めて、この滋賀県は、近江の国と言われるようになった。
国の真中は、満々たる琵琶湖の水である。もっとも、遠江はいまの静岡県
ではなく、もっと大和に近い、つまり琵琶湖の北の余呉湖やら賤ヶ岳あたり
をさした時代もあるらしい。
大和人の活動の範囲がそれほど狭かった頃のことで、私は不幸にして自動車の
走る時代に生まれた。が、気分だけは、ことさらにその頃の大和人の距離感覚を
心象の中に押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。
、、、、、
我々は叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走っていた。
叡山という一大宗教都市の首都とも言うべき坂本のそばを通り、湖西の
道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけた
ようで、いかにも豊かであり、古代人が大集落を作る典型的な適地という
感じがする。古くは、この湖西地域を、楽浪(さざなみ)の志賀、と言った。
いまでは、滋賀郡という。
、、、、、
この湖岸の古称、志賀、に、、、、
車は、湖岸に沿って走っている。右手に湖水を見ながら堅田を過ぎ、真野を過ぎ、
さらに北へ駆けると左手ににわかに比良山系が押しかぶさってきて、車が
湖に押しやられそうなあやうさを覚える。大津を北に去ってわずか20キロ
というのに、すでに粉雪が舞い、気象の上では北国の圏内に入る。
小松、北小松、と言う古い漁港がある。、、、、、
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られて、
その赤は、須田国太郎の色調のようであった。

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