2016年2月14日日曜日

春には色々とあるね


今日は、突然、三番目の息子が夜、やって来た。

もっとも、彼の登場は、いつも突然であり、本来は、彼が拾い育てるべき

4人も、突然、連れてきて、そのまま我が家に置いてけぼり。

要は、猫族の心配ではなく、夜の食事をしに来たのである。

食べ終わると、直ぐに、いなくなる。

近くに建てた家に帰るのである。

でも、彼には、珍しく一言捨て台詞。

「今度の日曜日に、古墳を見に行かない?」

「いいよ」、主人が軽く応えている。

「古墳??」猫族には、理解出来ない言葉が出てきたので、皆が一斉に

息子を見る。

この息子、突然、脈絡のない行動で我が家の人間を驚かす。

「古墳って、なんで行きたいの?」

彼の説明によると、どうも、京都の友達が、当然女性であるが、この辺には、

多くの古墳があり、それを是非、見たいと言ったからのようである。

その軽さに、主人もママも、ただただ感心するのみ。

主人も気になり、パソコンで、近場の古墳を探し始めた。

「へえ、結構あるんだ。ママも行かない?」

「かなり歩くんでしょう。疲れるからダメ。」

単刀直入のお答えで、結局、息子と京都の人、主人の3人が出かける。

その日は、春の先駆けの歩くには、絶好のお日和である。

遠く琵琶湖の対岸の山並と湖の間には、薄い雲がかかり、山並と水面が

曖昧な姿を見せている。空は、湖面から徐々にその濃さを増し、薄い

水色から、天空の濃い蒼さへと変えていく。

その中、近江富士と呼ばれている三上山だけが、ぽっかりとその富士山に

比べたら大分小さな円錐の姿を浮かんでいる。その横には、西国三十三箇所

の長命寺のある八幡山が湖までその裾野を広げ、更に目を転じれば、沖島

が八幡山とつながる形で浮かんでいる。その昔、沖島は八幡の浜辺から

数キロ離れていると言うのに、猿、猪など野生の動物が全くいなくなったと言う逸話がある。全ての動物が島の住民に食べられ、それを恐れた動物が、泳いで逃げたとのこと。

隣の駅の近くにある小野妹子の神社に行くので、ノンビリと電車で、向かう。

駅前に、京都の女性がこれも、ノンビリと駅前の広場の椅子に座っていた。

「おはようございます。小野です。今日は、宜しくお願いします」

元気な第一声である。やや太目のジャケットに白いジーパン姿が結構、

お似合いである。

「おはようございます。どういう訳か、一緒に行くことになりました」

「行こうぜ!」息子の掛け声で、かなり色づいた木々の通りを歩き始めた。

少し登り坂の道を10分ほど行くと、こんもりした高台が見えてくる。

大きな建て看板に迎えられる、「唐臼山古墳」。

芝生の中に、なにやら白いものがいると思ったら、大きめの白猫が

気持ち良さそうにヒナタッボコ。

その先に、小野妹子の神社が鎮座している。小野妹子は、歴史の教科書

でも、遣隋使として、有名であるが、華道の始祖でもある。

時たま、思い出した頃、華道関係の人がここまでくるという話を聞いた。

でも、それは、鎮座していると言うよりも、石の鳥居に小さな家が同居している感じである。看板には、古墳とあるが、その影すら見えない。

「なにもないね」

息子と彼女が同時発生的に、叫ぶ。

高台の下を見下ろせば、マッチ箱のような家々が折り重なるように、幾重も

琵琶湖に向かって伸びている。そのミニチュア的な風景にも、車や人が

世話しなく動き回る世界がある。

「文明の前に森林があり、文明の後に砂漠あり  (シャトーブリアン)

目を閉じれば、その昔、一面の野原の中に、西には、大きな前方後円古墳の

和邇氏の墓があり、私たちが立っているここには、小野氏の墓があったのであろう。

そして、琵琶湖だけが静かなさざなみをその岸辺に打ち付けて、その変わらぬ

姿を見せている。

時の流れは、止めることは出来ないが、この人間の強欲的な発展の姿は、

変えられるものなのか、ふと、横切る想いに、一瞬躊躇する。

「さあ、次へ行こうぜ。ここにはなにもないね」

 

高台を下り、既にあの白猫はいなかったが、少し先に見える小野道風

神社を目指す。

先ほどの小野妹子の神社が期待したほどでなかったのであろう。

2人は、チョット長くなってきた影を落としながら、沈黙の世界に

浸っているようである。

小野道風は、書道家として、ヤマト王権にも、認めらていた、とのこと。

でも、元祖がいれば本家があるように、ほかに地域でも、小野道風が

わが神社の祭祀という神社も多い。

そのような説明のある横の説明書きを横目で見ながら、石段を上がると、

「結構、大きいし、造りが何かほかと違うみたい?」

さすが、歴女のはしくれか、分かっているようである。

「へえ、何が違うのよ!他の神社と同じく見えるけど」

「その屋根が、ズーと張り出しているでしょう。他のは、こんな造り

には、なっていないわ」

「そうなんだ」

息子、納得したようではあるが、多分、分かっていない。

しばらく、杉の林が囲む空間の色と匂いと静寂という音の中に身をおく。

街の喧騒とは、全くの異なる世界の中で、3人は夫々、何を思うか。

竹やぶと言うのは、2面の強い顔を持つ。

昼間の日差し差す中での木洩れ日は、人に安寧と生きていることへの

喜びを与えるが、夕刻や曇りの中では、そのざわつく竹笹の音と揺らめきが

自身の不安をさらに煽り、恐怖心が身体を突き抜けていく。

「竹やぶって、気持ちよいですね」

「そうかな、なんか出てきそうで、あまり好きじゃないな」

こんな会話の先に、古墳が突然現れた。

もっとも、見えたのは、古墳の天井に使われていた1メートル以上の長さの

石板である。

説明の看板には、「唐臼山古墳群2号」とある。

これも、期待はずれか、2人は、横を通り過ぎる。

しかし、その先の林の中に入った2人が、驚きの声を上げる。

「凄いね、これって本格的なお墓みたい!」

「みたいじゃなくて、本当の墓なの」と心で叫ぶ。

「天井も正面の壁も、1枚の石板で出来てるよ。どうやってここまで

運んだんだろう」

暗闇の中に、乾いた空気が踊り、何も見えないはずの黒い世界

が色づいている。過ってはこの場所に、和邇一族と呼ばれる豪族の

長が、静かに横たわっていたのであろう。

時というのは、時にむごいことをする。

死後の世界で、安寧を図ろうとした人間が、興味本位の人々にその

存在を脅かされるのだ。

小野タカムラ神社も歩いて直ぐの場所にある。

この神社は、今までの神社よりも大分大きい。20段ほどの石階段の

先に小野道風神社と同じ作りの建物が、こちらを睥睨する形で建っている。

横手の小さな小川に沿って、本殿があり、その奥に菓子の始祖とのことで、

小さな本殿がある。横の社務所では、「しとぎ」と呼ばれ御餅を竹で

巻いたものを売っている。

今日は、小野妹子祭りと言うことで、和邇川の向こうでは、お店もあり、

草木を販売する花フェスタもあり、人に賑わいがここまで伝わってくる。

「やぱー、人がいないと面白くないね」

「でも、さっきの古墳や見てきた神社ってやっぱし、落ち着きますね」

「じゃ、俺たちは屋台や仮装行列みて、適当に帰るし」

帰れとは言わないが、もう親父は不要との空気が一気に押し寄せる。

「それじゃ、チョット天皇神社に寄ってから帰るわ」

まあ、しょうがない。家で、待っている5人の猫族に、今日の話を

して、感想でも聞いてみようと、一人寂しく、比良山を見ながら歩を

進めた。

今日は、北風もなく、散歩には、是非、出来べき日かも!

残雪と言うには、片隅に、ちょこんと座っているような雪が、恥ずかしい。

遠く大きな水溜り、猫にとっては、海と言ってよいほどの、湖の先に、雪を

帽子にしたような山々が、こちらに向かって挨拶しているようである。

蒼と白、そして、ややくすんだ山肌の木々がいる。

公園には、数人の親子連れが、その中を流れる小川で遊んでいる。

寒さよりも、その声の暖かさに柔らかな空気を感じる。

そして、改めて日差しの恩恵を感じる。

 

暫くしてライはまた、貴重な体験をした。

俺、ライは、久しぶりに主人と一緒のお出かけ。でも、かなり興奮している。

俺も、結構、冒険好きで、あっちこっち、出歩いているが、こんな目にあったのは、初めてだ。

始めは、チョット先の公園の道に、俺の嫌いな犬族の連中がいるのか?と思ったのだが。

数匹の猿が(もっとも、犬以外その名前は分からず、主人が教えてくれたのだが)いるのだ。

顔が赤く、尻の赤い連中がこちらを見ている。

主人も、チョット吃驚、「こんな処に猿がいる!」と。

暫く2人で、様子を見ることにした。

先方も、害にならないと、分かったのだろう、適当に遊んでいる。

でも、この程度だったら、いつも冷静な俺も興奮はしないよ?

そうかな??と主人の心の声はあるが。

そうなのよ!

突然、10数匹の猿が、公園の運動場に現れ、全員、川の向こうにある神社の森に突進してきたのだ。

そんな大勢の猿がいる!恐怖と感激が同時にやっててきたみたいだ。

大きいのから小さいのまで、多分、先頭のボス猿の後をついているのだろが、

結構、真剣に走っている。

林と川の間には、道路があるのだが、走ってくる車などお構いなく、まるで、

「お猿様が通る」風情で、ドンドン行く。

車も慌てて停まり、多分、車の中の人も、俺たちと同じ心境かも。

でも、話は続くんだよね!

俺も、あーー行ったのか?と思って、猿たちが来た先の家の上を見ると?

なんと、4匹の猿が、屋根の上で、日向ぼっこの最中。柿を食べてるのもいるのよ。

人間社会と同じで、ボスに逆らうのがいるんだね。

また、例の言葉が蘇る。

「文明の前に森林があり、文明の後に砂漠あり  (シャトーブリアン)

最近、猿や猪、鹿などの動物が人家まで来て、食べ物を漁るなどの話を主人とママがしていた。可愛そうだ、とも言っていたが、今日の猿族は、元気だし、毛並みもよさそう。

ノロさんよりも、元気のようだ。

ともあれ、仲良く、お互い過ごしたいもの。

でも、俺1人の時にあの連中と出くわしたら、怖いわ。

レトなぞはちびって、動けなくなるじゃない。

まだ、神社の林が揺れている。

「人間も猫も、猿も、皆さん、仲良く過ごしなさい!」と言っている様だ。

誰もいなくなった公園と河原には、静けさが戻っている。

今見た光景がまるで夢のようだ、とライは思った。

 

 

 

ある午後の日

ママが早速、「これ良すぎ、本当かな」。

59歳になった私は、定年の少し前に会社にとって不要な人になった。

再生し、新しい人生を歩む為には、過去にとらわれない、自分の考え方を

持ちたいと思った。お参りするごと自ら自問自答し、段々ああそうか、

それで良いのではないかと考えが定まってきたように思う。同時に感謝と

有難うと言うことの訓練の行であったように思う。ここまでよく頑張った

自分にも感謝し、今後の苦楽も素直に受け入れられる自分になったと思う。」

その日も暇を持て余した山田さんが来ていたが、直ぐに、感激し易い山田さん、「この窓際族の思い、良く分かるわーー」。

「「窓際に行った連中の覇気のない顔を見ているとこっちまで、気が重くなるね」

主人は、別な人の感想を読んでいる。

俺たちは、「物足りれば、心持なんか、寂しくてもいいけど、人間って

そうわ行かないのかな。」

猫族は、結構、お節介やきで、なんにでも、首を突っ込むタイプが多い。

でも、この四国遍路とか言う人間のやることは、5人とも、理解できない

様である。

全員、山田さんの方を向いて、「次にこのオッサン、何に感動するんやろ」

と全員が見ているようだ。

「物足りて心寂しい心境での表面的な生活に疑問を感じ本当の自分の行き方

を見つけ出したい為、四国巡礼に友達3人と出ました。最初は軽い気持ちで

「旅行の延長」で参ってましたが、段々と御参りを続ける内、ほんとに心に

響いてくるものを感じるようになりました。宿坊に泊まり早朝、厳格・厳粛・

静寂の中で読む般若心経、ご住職の温かい説法・・・自分の中で何かが

変わり始めてきました。 最後、高野山までお参りを終えた頃には、3人とも

顔つきが変わっていました。自分の人生、生き方について本当に考え

させられました。今後、少しづつ物にとらわれなく、自我に固執することなく、

人生の修行、結婚、仕事を続けて行こうと考えてます。

続けきった時、何かが見えてくるように思います。自分が生きているのではなく、周りの皆様によって支えられ共に生き、何か大きな力で生かされている

ような気がします。ありがとうございました。」

「こうわ誰でも思うんだけどね」と主人がポツリ。

「退職を機に、今までと全く違った価値観の世界に身を置いてみる...との

衝動にかられ、毎春、八十八ヶ所巡りを計画。今回が第一回である。阿波の

発心の道場、23ヵ寺をタクシーで巡りました。出会う人々との気持ち

よい挨拶、地元の人々の温かい接待、すばらしい自然、心地よい風...今まで

の人生で味わえない充実感がありました。 そして、人間の原点に戻れた

ような気持ちです。組織社会からは絶対に得られないこの感動を、何時までも

心に刻んで生きていくつもりです。」

春は、いっときに訪れる。

周りは、全てピンクに覆われている様だ。

空の蒼さも、ピンクにかかり、遠く薄蒼く見える琵琶湖も何故か、ピンクの湖面。

ひらひらと落ちる桜の花びらも、淡いピンクの雪の様に地上に舞い降りてくる。

川面もピンクに輝き、光と周りの花たちと一緒に、春の長閑(のどか)を謳歌

している。

比良山も正に、「山笑う」「山うらら」。

 

春の季節はさらに進む。

まだ暗い。東の方から少しづつ、まるでモノクロ写真のような

暗さからやがて白い光となってくる。

庭の梅の木から、紫陽花へ、そして名前の忘れた柑橘の木、最後には、

毎年赤い大きな花を咲かせるデゴニアへと、光が流れて行く。

その横には、小さな紫の身をつけた紫式部の木がひっそりと立っている。

しかし、梅の木の蕾以外、まだその色を見せているモノはいない。

ピンクの小さな豆のような蕾が褐色の枝に満遍なく張り付き、青み始めた

空に突き刺すようにその枝枝が伸びている。ピンクの蕾も冬の寒さから

開放されたのか少し緩いまとわりとなりその開花を待っている様でもある。

春が次第ににじり寄って来る気配を猫たちも感じているようだ。

チャトが少し顔を上げ、その空気のやわらかさを感じ取ろうとしているようだ。

少し前まで見せていた中空の月の姿は、今はなく、ただ青い空が

全天を照らしている。しかし、その蒼さも、家々の屋根近くでは

白く輝き、少しづつ蒼さを増しながら、天空へとその蒼さを濃くして行くようだ。

朝のしじまが少しづつ、昼の明るさと喧騒さに紛れ、一枚一枚写真を剥がすが

如き動きで、やがて朝の顔になって行く。

まだ白いものが残る比良山の山並が少しづつ後ろに流れて行く。目の前に広がる蒼き湖がそれに合わすかのようにこれも少しづつ大きくなっていく。春の霞に薄いベールを通して見るような沖島や八幡山の対岸の風景もどことなく

暖かさをもって見える。右手のやや深い森からは鳥たちの朝のさざめきがとき

に激しく、時に密かに主人の耳の届く。この坂も何十年と歩いた道ではあるが、

四季の色合いを感ずるのは、春である。特に、身体の衰えを感じ始めた4,5年前から主人は、今まで好きだった秋よりも春に喜びを感じている。

薄暗い空が多くを占め、山と湖をその力で押さえつけるような冬の死に近い風情は、死が近くなったものにとっては、何の慰めにならないし、寒さの中で縮こまる自分の姿に情けなささえを覚える日々でもある。そのような季節から雨水、啓蟄といった二十四節気のいう生命の息ぶきを感じる春は、今の自分にとって、大きな慰めであり、勇気付けでもあった。足下に眼を落とせば、芝桜の可愛いピンクがあり、庭にはピンク、黄色、白など様々な色の花たちが一斉に咲き始めている。名もなき雑草と言われる草たちも冬のややくすんだ緑や茶褐色から光る緑へとその姿を変えつつある。歩き過ぎる家々の風情も、同じ姿で

あるはずだが、その醸し出す空気は緩やかな暖かさで和邇を包み込む。

既に、青味の増した芝生の上にルナはいた。主人を見ると、出迎えへの喜びを

身体全体で表している。尻尾を絶え間なくふり、前足をこちらに向け、いつもの片足を上げる仕草で握手を求めて来た。眼を見れば、オッサン早く散歩に

連れてってな、早ようしてな、と言っている。ここで飼われてからまだ1ヶ月ほどだが、すでに10年もいるような態度で、この孫娘はしっかりと主人を見つめていた。

リードを持てば、脱兎の如く坂を駆け上がろうとする。長いペットショップの

狭い空間で過ごして来た憂さをこれ以上ないような仕草で晴らそうとしているようだ。

しかし、想いとは別に、まだ体力不足なのであろう。主人を引き回すほどの

力はない。結局、この足の遅い老人の歩調に合わせて、やがてゆったりとした

歩みとなる。それでも、家の前に行く頃は、2人ともが、息切れが大きい。

何しろ、片方は4ヶ月近い闘病生活であったし、片方も3年近い狭い檻の中の

生活であったのだから。そんな二人に既に咲き始めた梅の花がその優しい

ピンクの色合いを染め付けている。遠くで、ウグイスの元気な声が聞こえる。

軽トラックのエンジン音が聞こえ我が家の横で停まった。

隣りの黒木さんは定年退職をしてから農作業を本格的に始めた。今では、どこから見ても農家のオッサンの風情である。楽しそうにしているのが羨ましいほどだ。

朝は5時ぐらいから近くの畑に出かけている。朝寝の我が家では中々に難しい。

しかし、朝の早い猫たちは既に活動開始、ライとハナコはすでにお出掛けしているが、主人に似たのかチャトはソファーの上でノンビリと朝のおねむの時間のようだ。

先日もママが慣れない家庭菜園をしているとニコニコ笑いながら立ち話。

「ようやく春らしくなったね、厳しかった冬も終わり、うちの家庭農園にも、

鶯の可愛らしい鳴き声も聞こえ、土の中に指を入れると柔らかな暖かみがあるね」

「畑の方はどうですか」

「先日、種蒔き箇所の天地返しから苦土石灰・有機堆肥を敷き込み、新たなる畝作りをしてね、ちょっと頑張った。さあ、今年の春野菜の第一作は何を作付けしょうかと思ってますよ」。

「元肥(有機堆肥)を入れて、男爵種芋の切り口には焼灰を塗り込めて植えつけると6月頃には立派な男爵芋が取れるしね。」

黒木さん、農園の話となると、止まらない。ベランダに出ていたチャト、レトが所在なさげに座っている。ライは盛んに両足で顔を拭いている。朝の化粧直しでもしている

かの様だ。ハナコは既に朝のお勤めか、すでにそこにはいない。

「ブロッコリー・カリフラワーを少しやってみようと思ってるけど、少し時期が早いかもね。レタス類は、日毎に暖かくなれば結構早く成長するね。コマツナ・京ミズナも手っ取り早く収穫できるから、夏野菜までの繋ぎで植えるしね。

まあ一応、春の第一作種植えを済ませたけど、どうなる事やら。

菜園の野菜は、手を掛ければすくすくと育ち、手を抜けば忽ち立ち枯れし、本当に正直ですよ。これからずっと、散水・雑草抜き・虫退治と多忙になるな」。

黒木さん、喋るだけ喋るとそそくさと自宅に戻っていった。

後に残されたママはただその姿を見送るだけ、チャトが「ママも何かしゃべったら」と言いたげにあの三角眼を投げかけていた。

ママも今年は小さいながらも菜園をしたいと思っている。家の周りを様々な花を植えて季節ごとに玄関や裏のベランダ、更には横の植え込みに色をつけているが、それでも満足できなくなった様で昨年からはトマト、茄子などをごく小さいその野菜畑に植えている。

しかし、途中の水遣りができなくなった事から全滅であった。そのリベンジの

つもりから今年は野菜畑の土お越しを少し早めにしようと思っていた。

「今年こそ頑張って、少しでも野菜を育てるわ。今日は土お越しぐらいはしておこう」

「黒木さんから小松菜と水菜を分けてもらったし、まずはこれをやってみようと」

すでにその触る土も温かさを持ち始めている。掘る土からは春の匂いと少し湿った黒い土の粒が手の中でうごめいている様だ。小さなミミズが身体をしきりにくびらせながらママの手の中で動いている。

まるで冬の寒さから解き放たれて嬉しそうな仕草でもある。

チャトとレトが既に伸び始めている雑草を美味しそうに食べている。

顔をその葉に直角に寄せて歯で引き寄せかぶりついている。

ママが引き抜いた草の根にはまだ冬眠でもしているのであろうか、玉虫の幼生が一緒についてきた。まだ色付きのない庭にも、紫に白い縞の入った小さな花をつけたクロッカスが5つほど密やかに咲いている。その色の艶やかさとは別に隠れるような仕草で庭の片隅にいる。ママがそっとその花たちに息を吹きかけていた。

ベランダで寝ていたライが3人の様子を窺いにのっそりと庭に出てきた。

まあ、この人の興味は食べる事と恋すること、家を抜け出す事であり、3人の横を通り過ぎ、ママにスリスリする仕草を見せながら玄関の方にノンビリと歩いていく。

そんなこととは露知らず、知っていても同じかもしれないが、ハナコはぶらりと街の中を回り、街の入り口に点在する畑に向かっていた。暖かい空気に誘われ、あまり行く事のない街の下の畑の様子を見に行こうとしていた。

途中、1丁目のクロネコさんと出会った。

「あんたどこへいくん?」

「今日は珍しく暖かいし、下の畑にでも行けへんかな、と思ってるんよ」

「まだ猿がいるって3丁目のキジ虎が言ってたから気いつけよ」。

「猿って、うちのライおじさんが出くわした動物の事なん。でもまあ大丈夫と思うわ」

と呑気な挨拶を交わしながらも、ハナコはドンドンと去っていく。

少し坂を上がると琵琶湖が曇り空の下、幾つかの波状的な縞模様を

見せながら、やや黒ずんだ水面を見せている。後ろに控える比良の山並も

久しぶりの蒼い空をバックにその稜線をくっきりと浮き出させている。

そこからやや下り坂の大きな銀杏並木の間をゆっくりと歩を進めると、

道には緑の小さな手のような葉がその色を増しつつあるのが分かる。冬から春へと言う時の流れが、彼方此方で、木々の姿を変えつつある。家々の間にあるうち忘れたような空き地には、以前からその寂しさを見せつつ、一本の楓がある。

その楓も、緑の衣装を着こなすようになり、冬の寒さからやがて来る季節への

移ろいを身につけ始めていた。時たま見せていた春の断片が1つの形を成すように春がどこともなく地上に揺れ立ちつつある。

やがて、杉の林の先に5段ほどに仕切られた畑が見えてきた。掘り起こされた土が黒く幾重も重なり合って春の訪れを待っているようでもある。この小さな

谷間の土地にも間違いなく春が忍び寄っているようだ。畑の先にある川からは

ゆらりと光る川面の流れと対岸の竹やぶから聞こえるウグイスのさえずり、そして川に沿った黄色の菜の花の帯がまだ枯れ色の多い中にもその色の濃さを増している。黄色の帯びは更に上流へと伸びて、春が来る道筋を作っているようでもあり、その途中には白い花をつけた梅ノ木が一つ黒い土をバックにして一層の白さを見せている。川のそばの畦道に軽トラックがゆっくりと入ってきた。ここの畑の人であろうか、春の陽射しを浴びながら、草取りを始めている。

川の下流にある公園からは、子供たちの飛び回る姿とはしゃぐ声が聞こえてくる。

ふと見れば、ハナコの足元の土が動いている。小さな虫が這い出してきた。その暖かさに浮かれるが如く掘り起こされた土の上を精一杯の力で歩いていく。

薇(ぜんまい)、芹(せり)、土筆(つくし)、蓬(よもぎ)らの小さな草たちが

それを守っているようでもある。啓蟄(けいちつ )の季節である。土の中の虫たちがうごめき始め、地上に顔を出し始める。冬の寒さは遠のき、野にも黄色い菜の花が咲く。

そして春のお彼岸、生の息吹を感じながら先祖の霊に想いを馳せる。

ハナコもただじっとその行動を見ているのみ、むしろ驚いているようでもある。

「こいつは何者んよ、動いているけど食べ物には見えへんし、気色悪いわ」

ハナコのその鋭い嗅覚で探っても、それからは土の匂いしかしない。

ハナコにとってもあまり経験のないことであった。

そうしている間にも、虫は土に帰って行った。外の寒さよりも土の温かさに自分のいるべき場所を知ったのかもしれない。

朝から昼になるに連れて春の光はその強さを増していた。

それに合わすかのようにチャトも朝のまどろみから醒め、その白い胸元と茶色の背中を揺らすように歩いていた。久しぶりに湖岸の様子を見たくなり、ゆっくりとした足取りで青白く幾筋かの波を見せる湖に向かってその歩みを進めている。

急な坂からは、琵琶湖の群青の光と銀色に輝いて走る電車が見えている。

家々からは少しづつながら春の匂いと色が漂ってくる。白い花が咲く誇る梅ノ木、緑が濃くなりつつあるムクロジ、赤い中に黄色のオシベを見せる寒椿、様々な色が様々な形でチャトの横を後ろへと流れて行く。坂を下り切った一角に小さな田圃がひっそりと残っている。忘れられた様でもあるが、すでに土が起こされ冬の間に耐えた力をその黒い色一杯に反映させているようでもある。

雀が十数羽、その上を激しく飛び回っている。土から這い出してくる虫たちを

狙っているのであろうか、その真剣な仕草からは春が来た以上の想いが伝わってくる。

その小さな畑を過ぎるとそこには湖が来ていた。

長く白い砂地が左から右へと大きな湾曲を描きながら延びている。

湾曲に沿ってまばらではあるが松林も続いていた。沖にはえり漁の仕掛け棒が

水面から何十本となく突き出し、自然の中のくびきでもしているようだ。

チャトのいる砂浜に向かってゆっくりとした波長をもってさざなみが寄せていた。

春は浪さえも緩やかにさせるのであろうか、冬に見たときのそれとは大きく違う。

チャトの10メートルほど先には、数10羽の鳥たちが青白い空とややくすんだ色合いの青を持つ湖面の間に浮かんでいる。あるものはえり漁の仕掛け棒の上で羽を休め、何羽かの鳥たちは遊び興じているようでもある。2羽のコガモが連れ立って水面をゆっくりと進んでいる。やがて彼らもここを離れ、次の住まいへと向かうのであろう。春は出発と別れのときでもある。

遠く沖島と少し黒く霞んだ山並を背景にして数艘の釣り船が浪に揺られ、釣り人がその上で釣り糸を垂れている。そのモノトーンのような光景を見ながら、チャトはこの辺を住処としている野良猫のゴローの事を考えていた。

砂浜の切れるところに港がある。古来よりこの地域は魚を取る事を生業とした

部族が住んでいた。このため、ここから北へ向けても幾つかの漁港がある。

ゴローたちは漁港の魚を狙いながら住み着いていた。

4年ほど前に主人とともにこの港に来た時初めてゴローと出会った。それ以来

毎年数回は、ここを訪れる。ゴローもチャトと同じ様な黄色と白の毛並みを

した雄である。身体はチャトよりの少し小柄だが、喧嘩はめっぽう強い。

チャトがここでノンビリ過ごせるのは、ゴローのお陰かもしれない。

チャトもこの虫が這い出すようなこの季節に来る事が多い。寒いのが苦手なチャトにとって、温かみが増すこの頃がちょうどタイミングが良いのであろう。

横で黒いものが動いた。

「お前何やってんねん、久しぶりやな」。ゴローであった。

冬の間、どう過ごしたのか分からないが、相変わらず精悍な顔をしている。

「少しぬるくなったんで、ここまで散歩ですわ」。

「相変わらず、ぶくぶく太りおって早死するわ、ここで野良生活を暫くすれば

ちっとはスマートになるやけどな」。

「人間どもの世話になるのは猫族として恥かしいと思わなんか」。

前回、会ったときもそうであるが、ゴローは独立心が強くチャトが人間と同居

している事に不満を持っている。

温かい風が2人を包むように流れて行く。比良の山にはまだ少し白いものが見えるが、冬の間、黒々としていた山肌にも、少し緑色が交じり始めている。やがてそれが黄緑となり、青さのある緑となって光り輝く緑色を見せるのだ。

2人のいる草むらの影も少しづつ東に伸び、春とはいえ夕暮れになると

まだ未練がましい冬の気配が、その姿を見せてくる。

坂の上は燃え上がっていた。やや赤みを帯びた橙色が、坂の上を支配しているように見える。

同じ様に、空もたなびく雲に、その色を投じている。

私は、ゆっくりと坂の勾配に逆らいながら、自身の重さを恨みながら進む。

そして、思う。歩くのでも、そのスピードによって、見るべき風景と見られるべき風景が違うことを。まだ若く体重ももう少し少なかった以前であれば、見られていないであろう家々の小さな変化が今は、はっきりと眼に飛び込んでくる。

庭に咲いていたであろうコスモスの枯れ具合の違い、既に空き家となった家の

少しひび割れた壁の変化、少し移動した庭の椅子、など。

枝振りの良い花見月の小さな芽が心地良い感触を伝えてくる。

坂の上に登りきると、西の山並には、まだ、先ほどの橙色の残照が残っている。

後ろを振り返れば、琵琶湖の水面が、青黒く輝き、遠く伊吹の山並までが見える。

カラスが一羽、電柱の上からこちらに向かい、かあー、かあーと呼びかけてくる。

夕食の美味しそうな匂いが辺り一面を支配している。

少し早い子供たちとの団欒、ここにも、1つの生活がある。

周りを見渡せば、既に、家々の明かりが灯り、道路にその光を投影している。

考えてみれば、今日はゴローさんとの話が長く、昼飯を食べていない。

腹が減った、あらためて空腹感が押し寄せてきた。

主人とママの顔が浮かんできた。

ふと、後ろを振り返れば黒く長い影がチャトの身体から伸び道路の端で消えている。

その寂しげな姿、早く帰りたいと言う思いだけがチャトを支配していた。

春は、チャトの背中にも来ているようだ。

 庭の梅の木にも春が訪れている。

少し前まで茶褐色の枝にピンクの蕾がまるで小粒の豆のように幾重となく張り付いていたのが、ピンクの花弁となり、10数本の白いオシベが飛び出している。

蒼い空に向かってピンクの笠が張り出したように四方にその甘いか匂いと

艶やかな空気を醸し出している。陽射しも冬の残り火を消すかのごとく力強く

降り注いでいる。

今日は我が家の猫全員が庭のベランダで思い想いのかっこでその陽を浴びている。

チャトは得意の腹だしスタイルで、大の字になり、可愛いオちんちんを丸出しにし、春のほの暖かい光を身体全体で受け取っていた。

そして、他の4人の猫たちはお互いの微妙な関係を見せている。仲の悪いライとナナはベランダの両端で少し緊張な面持ちで座っている。

気の弱いレトは大分離れた庭の椅子の上でこの2人の様子を窺い、ハナコはいつも虐めるレトの動きを見張るためかチャトの横でレトの監視をしているようである。

まあ、そんな空気を知ってか知らずか、チャトは時折聞こえる自分のいびきに

自分で吃驚している。また、一陣の雲がその陽射しを遮るように比良の山へと

流れ、4人にその影を這わしていく。少し風が強い。

春は人も猫も虫たちと同じ様に様々な形で這い出してくる。この春を分けるという春分も、この時期となると人間は色々に動き出す。春分待ちわびた春の盛りである。

街の風景も柔らかな桜色に染まり、あちらこちらから甘い香りが漂う。目にも

美味しい四季折々の風情を味や色、香りなどで表す春のお菓子たちが立ち並ぶ。

この季節は桜色に染められた粉がよく使われ、鮮やかさが目にも美味しい。

五感で感じる春薄紅色の粉を使う桜餅。五感全てで春を感じ、穏やかな季節を祝う。

でも、猫供は寝ているのみの様でもある。少し寂しい。

部屋には主人とママに加え、隣町に住んでいる小野さんが来ている。彼は甘いものが好物であり、近くの和菓子の店のウグイス餅とイチゴ大福を持参してきた。

3月、 弥生 季春 などと言われるのが一般的だが、ほかに こんな呼び方がある。

夬月、 花月、 嘉月、 禊月、 建辰月、 桜月、

早花咲月、 早花月、 蚕月、 染色月、 宿月、 称月、 桃月、

花津月、 花見月、 春惜月、 雛月、 夢見月 何となく、わくするようだ。

そして、その呼び方にあわすような和菓子が目の前にある。

ウグイス餅は春告鳥(はるつげどり)とも呼ばれるうぐいすを表現した上品な色合いの和菓子で、白地の生地に青大豆のきなこを使って独特の蒼さを出している。

美味い物はまず「眼で食す」と言うが、イチゴ大福のその白い生地から透かして見えるイチゴの赤い仄かな色合いと合わせ食べるにはもったいないようだ。

「この季節になるとこの店ではこの2つを作るんですよ。結構評判で朝早く行かないと売り切れる事もあるんで、今日は上手く買えたので、おすそ分けです」。

「毎年、頑張って持ってきてくれるなんて幸せだわ」

ママも感激の一言。主人はそそくさとお茶を持ってくると先ずはウグイス餅を一口で食した。何とも風情のない人である。

「私のとこは、すっかり緑が少なくなっているけど、歩いている人、車にいる人、誰もがゆったりとした雰囲気ですね。この空気感が人を解放しているのかな」。

「何とも言えないそのざわつき感というか、ちょっと少し前と違いますよ」

小野さんは、何に感心しているかよく分からない風情だが、一人悦に入って

いるようだ。

「庭に梅あり、そしてウグイスとまさに春だね」。

「金魚たちも何かウキウキとしているみたいだ」。

なるほど、我が家にいる金魚とは言えない大きさになった5匹が浮かぶ藻の中で心なしかその泳ぎが激しい。10個の大きな眼がその赤銀色の巨体とともに、

一斉にこちらを見ている。春の息ぶきがこのさほど大きくない水槽にも来ている様でもある。

また、調子の良い事を、とママは主人を睨みつける。既に主人の小皿には何も

残っていない。

「やはりこのような雰囲気で食べるから美味しいのよ」。

「あなたもそれ以上食べないでよ。デブが目立つわよ」

と先制攻撃だが、既に主人は完食したようだ。

ママと小野さんは、ノンビリとこの愛すべき一品を口に運び味わっているよう

でもある。ママはイチゴ大福の乗った皿をゆっくりと手前に寄せてからその

白いベールに包まれたピンクのイチゴを透かし見るように口元に持ってくる。

1口、2口と口に運びながら餅とイチゴの甘さをかみ締めている様でもある。

小野さんは、3つの指でつまみあげるようにその白く弾力のある大福を

一気に口に運びこんでいた。大きく上下する頬の肉と口の周り白い粉が

今食べたイチゴ大福を露わにしていたが、細く垂れ下がった目元はその満足さを明らかな形で周りの猫たちにも伝えていた。

そしていつの間にかママの膝にはハナコが来ていた。

ニャオーという少し甘えた声はこのウグイス餅を欲しているのであろう。

多分、多くの人は猫は魚の類しか食べないと思っている方がほとんどと思うのですが、我が家の猫族は少し違う。特に、ナナとハナコは甘党でもある。先ほどまでのノンビリ感とは違う様子でハナコがママに迫っている。

「ママ、早くその美味しそうなものを私にも頂戴」。

先ほどのニャオーを翻訳するとその様になる。ともかく野良猫育ちの彼ら、彼女らは人間と同じものをほとんど食べる。バター、お煎餅、チョコレートなどなど。

どこでその味を覚えたのかは定かではないが、主人やママがノンビリとおやつを食べているとそのざわつき感や食べる音に素早く反応する。ネズミを捕ることがなくなった今、猫たちにとってこれも狩りの1つなのかもしれない。

以前にも描いたが、猫好きの人間は、猫を4本足を持ち、毛皮を被った人間と

思っている。ここの主人やママのように、少し小柄な家族と思っている。

だから、猫達がチョコレートやバターを食べる事にあまり不思議な思いは

持っていない。

でもそれを理解できない人間もいる。小野さんがそうであった。

毎年春になる美味しそうな和菓子を持って我が家を訪れるが、今日のハナコの

行動には、いささかビックリした様である。

「猫が魚以外のものを食べている!」。彼にとっては春の椿事以外何者でもなかった。

ママの横で、美味しそうに食べるハナコをその大きな身体には不釣合いな小さい眼を更に細めてじっと見ている。

ハナコもその様子を感じてか、ジッロと見返す。

「このオッサン、人が楽しく食べているのに、何見てんねん。失礼な奴やわ。猫が魚しか食べへんなんて偏見を植え付けたのはどこのアホよ。猫のほうがはるかに美味しいものに敏感なんよ」、と。

「ママ、この猫、ウグイス餅を食べてますよ」。

「この子、甘いのが結構好きなの。ハナコ、あんまり食べるとデブになるよ。

もっとも、結構デブになってるけど」。

「私はまだまだスマートよ、失礼な人ね」と言いたいのだろうか、口を大きく開けてニヤオーの雄叫び、ではなく雌叫びである。

「少し風が強くなったね」主人がノンビリとした調子で言っている。

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